品川OLの腰掛日記

彼氏のことや仕事のことなど

「コンビニ人間」を読んだ

私は幼いころはスチュワーデスになりたかったのだけど、それは母親が「スチュワーデスは素敵な仕事よ、スチュワーデスになりなさい」と言っていたから。そして、母がどうしてそんなことを言っていたかといえば、当時流行っていた、スチュワーデスを題材にした「やまなとなでしこ」というドラマのせいだった。

ANAの機内でのみ購入できるリカちゃん人形を買い与えられたものの、その造形の細やかさに感嘆しつつも、それ以上のきらめきを感じることは、私にはできなかった。

ひとは認識しているものにしかなれない。

この小説では、コンビニというどこにでもある世界、その世界を構成するコンビニ店員になることがある種の救いとして描かれている。この本ではコンビニを水槽のように表現している。確かに外から中が丸見え、四角い店舗のコンビニという世界は水槽みたいだ。そういえば、とある本で外交官は水槽を泳ぐ色とりどりの熱帯魚のようだと書かれているのを見た記憶がある。どこの世界も似たようなものなのだろう。

直接触れられない世界、例えばアフリカの難民という世界、そういうものに触れるためにボランティアという世界がある。ボランティアの世界とアフリカ難民の世界は、隣り合っていたとしても決して一つにはならない。透明な水槽であったとしても、そこには見えない壁があり、しきりがあり、混ざることを許されない。以前、「黒人」の子供たちに食事を提供する「白人」の大人という構図を皮肉った写真を見た記憶がある。つまりはそういうことだ。

人間が二人いれば、それだけで社会は構成されてしまう。

 

様々な社会を見て、そして排斥されてきた。

幼少期は、母親の教育方針によりお嬢様の通う幼稚園に入園した。自分が古いアパートの2階に住んでいる一方、おともだちの家の庭には鯉が泳いでいた。200坪も400坪もあるおうちに遊びに行って、狭いアパートに帰ってくる生活。母は恥ずかしがってアパートにおともだちを連れてくることを禁じた。卒園式のおうたは洋楽だった。私はこの社会の法律を理解すればするほど、自分がここにいてはいけないことを理解した。

これが小学校に入れば、女も学問だと言われ受験戦争に突入し、大学受験で失敗すればいい旦那さんを見つけなさいとなる。

たくさんの世界のたくさんの法律を見聞きしたために、社会同士が分かりあうことが不可能であるということだけは理解できた。

こういった世界で唯一希望なのが数学や音楽、将棋やオセロや芸術なのかな、とも思った。

これまで所属したどの社会ともうまくやっていけなかったために、今私はこうして一人でいる。これまで生きてきた社会が多様すぎて、どの法律を適用して生きていけばいいかわからないし、その法律のすべてが、私の中で絶対的になりえないからだ。

私が最後に体験した異文化はイスラームだった。日本だと時間に厳しいけれど、イスラーム圏の教授陣はそんなことはないように見えた。断食している先生を見て、それを「正しい」か「間違っている」か判断できるだろうか。礼拝している姿を見て、それをどう判断すればいいのだろうか。モスクに行って仏像がないというべきなのか、十字架がないというべきなのか。

独身で働いている女性に対して、どのような感情を抱けば正解なのだろうか。「経済に貢献している」のか「少子化に貢献していない」のか。意見を求められたとき、私は目の前にいる相手の立場によって意見を変えているけれど、それは自分がないことの裏返しなのかもしれない。法律を受容するだけ受容して、結局どの社会にも所属できなかったことの証明なのかもしれない。

再生産される価値観に戸惑いつつも、生きやすい世界を作り上げようという、そんな気持ちも昔はあったけれども、それも挫折に終わったような気がしている(サークルクラッシュ同好会がそれだ)。

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なんてことを考えつつ、もうそういうことは考えたくないという気持ちもあるんだよね~。考えたところで答えは出ないし。分析したその先、っていうのがね、着地点が見えないわけ。

周囲から「あなたはどこででも生きていけそう」って言われることがかなり多いんだけど、その源泉はここらへんにあるのかなとは思う。

クッソいろいろ考えた末に今思うのが、社会を変えることは難しいしほぼ無理だけど、社会を作ることは案外簡単なんじゃないかってことです。で、作った社会がほかの社会に影響を与えて、変革を促すのも可能なのかな~って。

そういうのが、起業とか、新興宗教とか、新ジャンルの音楽だったりするんじゃないのかな。