品川OLの腰掛日記

彼氏のことや仕事のことなど

他者を救うための手段としての愛

最近知り合いになった40代独身男性について書きたい。

彼は仕事もよくできて、性格も穏やか、センスも良く高学歴で、何故これで独り身なのか分からないくらい出来た人なのだが、結果として独り身なのだった。僕の分析力を駆使しても彼が何故今まで一人だったのか不明で、強いて言えば思い遣りがありすぎて本当のことを言えない(それは正確には思い遣りではなく、物事に波風立てたくないだけなのだけど)ことが表面上の問題、内面的問題は、たぶん若いうちに色々悟ってしまって、さらに大人になってからの様々の挫折も相まって、一生懸命生きることを諦めてしまっていて、それがすぐそばにいる人間をイラつかせるのだろうなと思った。

 

以前、「個性を大事に」運動が激しかったときはなんて無駄な活動だろうと思っていたけど今思えば小さい頃から何かしらを頑張らなければ(=個性を持たなければ)大人になってから生きづらいのだなと思う。僕は自分のことを無個性だと思う。けれどダサい個性ならいらないなとも思う。文学フリマで「私たちは◯◯女子!」てな感じで本を売ってる人たちがいてセンスがないなと思った(でも販売されていた冊子はとてもよい内容で、それがさらにラベリングに対して悲しみを抱かせた)。自分をラベリングするならまだしも自分たちをラベリングする行為には抵抗感がある。

普通に生きていれば個性なんて地元と家庭くらいしか発生源にできないものだろう。それ以外のものとなると恋愛くらいだ。他者を救うためには愛しかないのだろうなと思う。冒頭の彼は、今年から婚活をするらしい。なんて勿体無いと僕は思った。たぶん30代40代の婚活女性は彼の表面上のスペックしか見ないだろう。そんな女性と籍を入れたとして、そこに救いがあるのだろうか。それはただの退屈な生活の延長ではないのか。いや、本人はそれを望んでいるようなのだけど、僕としてはもう少し馬鹿になって生きて欲しいなと思うのだ。価値観の押し付けでしかないのだけど。

他者を囲うためには愛がなければいけない。赤い糸などでなく、愛の鎖が必要なのだろうな。僕は僕が気に入った人間は救いたいなと思うし、逆に言えば救えそうな人間しか好きにならないのだろうなとも思う。愛の鎖の可視化としての結婚があるのだろうし、それを拡張したものとして家庭も存在するのだろうなと思う。

僕の理想は、愛に根付いた家族を持つことだ。彼氏と結婚したいし、できることなら上記のおじさんも僕の家庭に組み込んでしまいたいなと思う。ホリィ・セン(@holysen)にこのことを話したら「革命的な手段」だと言われた。でも毒親持ちなら養子になりたいと思ったことがある人は多いと思う(それくらい僕は実家が苦手だ)。僕は彼氏と結婚したいし、おじさんの養子になりたいとも思う。できることなら僕が実家を出た後に実母に精神的にミンチにされたらしい弟もおじさんの養子にしてしまって、ハンドメイド家族を結成したい。

追伸)ういうれおかわいい。